わたしの身におきた瞑想の効果のこと③
前回の続き 最終回
頭のなかの映像、妄想によって掻き立てられる衝動、次々立ち昇る感情、この連鎖を少しこらえながら観察していくと、小さくなっていくものがありました。
「我慢」です。
これまでは自分の想いに目を背けては、力づくで蓋をしてやり過ごすことが多かったのです。
人目や人の評価を気にして、納得していないのに大人の対応をしたり、本音を偽って言葉で飾ったり。
自分に嘘をついて、我慢をかさねていたのです。
「あー、私イライラしてるな」
「大人げないけど腹がたつなぁ」
「今すぐ誤解を解きたい」
勇気を出して、全部認めてみることをしたら、自分が自分に嘘をつく必要がなくなりました。
嘘のない身体は緊張がなく、いっそう変化に気づきやすくなります。
私に起こったこの流れは、自分の内側を観察して、湧き上がるものに気づいても考えない練習—「瞑想」で学んだことだったのです。
そして、時折実践する「慈悲の瞑想」についても感じたことが。
自分の幸せにはじまり、自分の好きな人、そして自分のことを嫌いな人の幸せを祈り、その方の笑顔に想いを馳せる慈悲の瞑想。
習慣といえるほど実践が追いついていませんが、相手がどんな人であれ、笑顔と平安、調和をイメージすることが自分もその場所へと連れ戻してくれる呼び水になるように思います。
「瞑想」、ハードルの高そうな耳触りですが、まず目を閉じてみる。座ってみる。深呼吸だけでもしてみる。
うまくいかない日はうまくいかない自分を少し観察したら、気分を変えてお酒を飲んで眠るのも1つ。
「忘れる」ことだったり、「ユーモアを持つ」ことの効能も私は大いに信頼しています。
決して修行僧ではない私たち、
雨の日はせわしく子どもにカッパを着せて繋いだ手を濡らしたり、
子ども同士のいさかいに自分の心に波風を立てたり、
楽しい予定が控えていようが、思いがけない事態には部署をこえて頭を下げたり、
とにかく色々あるのです。
それでも、日常を本当は大事にしたいという想いが、マインドフルネス、瞑想、ヨガを静かなブームにしているのかも知れません。